第一部

Symposium

室伏鴻と苛烈な無為 Vol.2 「真夜中のニジンスキー」へ

Lecture 02

室伏・ニジンスキー・動物──無力のダンス

ジョナタン・カウディーヨ

皆さんこんにちは。多難な日々が続いておりますが、お変わりなくお過ごしでしょうか。
このプレゼンテーションでは、室伏鴻の作品における他者性と不可能性についてお話ししたいと思います。この問題は、室伏鴻が提起する身体との関係性を理解するうえで重要な要素です。

「自らの身体が、最初の〈他者〉であり〈異物〉なのだ」という室伏の言葉の真の意図を探るには、この言葉を実存的・生気論的な肉体の経験の証言として捉える必要があります。主体性が地層化されるとき、自己という幻影が生まれてしまい、肉体経験の根本的な他性を覆い隠してしまうのです。肉体は本来、強度的な表層として経験されるはずなのに。「身体」は、所有されうるかのように考えられています。たとえば「私の身体」という表現がありますが、まるで所有可能なオブジェのようです。この意味からすると、室伏鴻のダンスとは、肉体が発する存在にかんする問いなのです。ダンスは衝突しあう諸力の根源的な葛藤から生まれてきます。そこでは自己同一性の論理が限界へと到り、危機に陥るわけです。つまり彼の思考は肉体の唯物論だと言えるでしょう。
ご存知のように、室伏鴻はいくつかのインタビューにおいて、文化を断ち切り、母国語を断ち切ること、孤児性に到達することについて熱心に語っています。これをどう理解すればよいのでしょうか。ニーチェにしたがって、ダンスを恍惚の一形態と見なすなら、踊る肉体は忘我していることになります。踊る肉体が経験する複数の力は、一義的な自己同一性を有する自己という錯覚を越えてゆくのです。室伏鴻にとって、この複数の力を解放することこそ、踊るということの意味なのです。彼曰く「同一性の神話から限りなく遠く、〈外れてあること〉、それが踊ること」。つまり自己同一性のもとではダンスは成立しないことを示唆しているのです。自己同一性から生まれる踊りは、踊りではない。なぜなら自己同一性が表現するのは、肉体の内外から湧き出る力に委ねられたものとはかけ離れた、石化した隠喩にすぎないからです。言い換えると、地層化された肉体を貫通する支配と規律の形態から生まれる飼い慣らされた解釈なのです。

ここで室伏が、モーリス・ブランショと対話するように思考を続けていたことの重要性を強調しておきたいと思います。というのも、自己同一性の論理の脱領土化とは、人間中心主義を肉体から一掃することでもあって、それによって動物への生成変化が可能になるからです。ブランショは、『終わりなき対話』において、可能性と不可能性の複雑な関係性こそが世界と関係する手段である、と論じています。可能性をめぐる問題について、彼は次のように語っています。
「このようなパースペクティブにおいては、この世界における私たちの諸関係、そして世界と私たちの諸関係は、結局のところは権力の諸関係であり、そこでは権力が可能性のうちに芽生えているのだ。私たちの言語活動の特徴のなかでももっとも明白なものにのみ限定して考えてみよう。私が言葉を語るとき、私はつねにある種の権力の関係を実行している。私は、自分でそうと自覚しているかいないかにかかわらず、諸々の能力=権力の網状組織に所属しており、私はそういう網状組織を利用しつつ、私に対してはっきりと現われてくる権力に対抗して闘っている。あらゆる言葉は暴力である。それが密かなものであるがゆえにそれだけいっそう怖るべき暴力である。そして暴力の密かな中心とは、語が名づけるもののうえにもうすでに行使される暴力──語は何かあるものを名づけるとき、そのあるものからを引き離すことによってしか名づけることができないので、どうしてもそのもののうえに行使される暴力──である。こうした暴力は、見たとおり、死が語っているしるしになっている──すなわち私が言葉を語るとき、死(あの能力=権力である死)が語っているしるしとなっている。」 

そして不可能性については、次のように指摘します。
「……不可能なものは思考を屈服させて降参するようにさせるわけではないこと、そうではなく、能力=権力の尺度とは異なる、ある別の尺度に応じて思考が告げられるよう導くのだということである。そういう他なる尺度とはどのような尺度だろうか。おそらくそれはまさに他なるもの〔l’autre〕の尺度である。他者としての他者の尺度、つまりもはや他者=他なるものを同じもの〔le même〕へと適合化させるものの明晰さに応じて秩序づけられているのではない他なるものの尺度である。私たちは奇異なるもの〔l’étrange〕と異邦的なもの〔l’étranger〕についての思想をもっていると考える──が、しかし実際には、私たちは慣れ親しんでいるものの思想しかもっていない。そして遠方のものの思想ではなく、遠方の思想を尺度によって測定する近いものの思想しかもたないのだ。さらにまた、同様に、私たちが不可能性について語るとき、ただ可能性のみがその参照軸を提供することによって、まるで嘲弄するかのように、不可能性をもうすでに服従させている。私たちはいつか一度なりと次のようなジャンルの問いを提起するに至るだろうか。すなわち、不可能性──この非-能力、とはいっても能力の単なる否定ではないような非-能力──それは何だろうか、という問いである。」 

この考察をたどると、可能性をめぐる問いによって、私有化の論理が浸透した世界との諸関係を定義することができます。資本主義が台頭している近代において、世界との関係とは可能性、すなわち私有化や道具化の可能性との関係なのです。それによって対象は、有用な生産性の秩序に従わせられ、ある目的を達成するための手段に成り下がってしまう。しかし、直接的に見える可能性の根底には不可能性が存在しているのです。不可能性とは可能性の単なる否定ではなく、他なるものとしての他者へと開かれるための独創的な手段なのです。他性とは人間ばかりでなく、非人間的な生の強度的な力である《他者》へと開かれることなのです。
不可能性は可能性の反対なのではなく、むしろその根底にある異貌化の経験です。この経験は、有用なものが支配する地層化された生活においては封じられ、剥き出しの生産性によって縫い閉じられてしまいます。室伏がブランショと行った対話の核心は、根源的な不可能性の経験の上演を、肉体の経験として見出した点にあります。不可能性を再現・模倣・演ずるのではありません。慣れ親しんだ直接的な身体を超えて、不可能な肉体に到達すること、他者としての身体を認識することが必要なのです。

この肉体の経験に関して、ヴァーツラフ・ニジンスキーは手記に以下のように記しています。
「私は鳴き声をあげるが、私は牛ではない。私は鳴き声をあげるが、殺された牛は鳴き声をあげない。私は神であり、『牛』だ。私はアピスだ。私はエジプト人だ。私はヒンドゥー人だ。私は黒人だ。私は中国人だ。私は日本人だ。私は異邦人であり、よそから来た。私は海鳥だ。私は陸鳥だ。私はトルストイの木だ。私はトルストイの根だ。トルストイは私のものだ。私はトルストイのものだ。」
この断章でニジンスキーは、肉体の経験は複数の生成変化の経験であることを示しています。そこには中心的・優勢な自己同一性はなく、他者への生成変化をたえず引き起こす様々な力の戯れがあるのです。忘我という恍惚の経験を通して、我々はたえず追い立てられる人間という動物に直面することになります。人間以外の動物とは違って、人間という動物は世界の中で生まれつき不利な立場にあります。そのことが技術の起源なのです。しかし、近代における圧倒的な技術支配の根底には、人間という動物が隠している無力さがあります。人間という動物が区別されるのは、人間以外の動物より優れているからではありません。科学技術と資本主義で構成される近代のエピステーメーは、人類の優位性を示そうと必死です。ですが逆に、室伏のダンスはその専制的な構成を暴くのです──彼のダンスは不可能性の力を上演することなのです。
不可能性によって、身体はおのれを構成する他性と、世界自体の本源的な他性とをあぶりだします。歩き、話し、立つとき、確実なことなどありません。世界との関係において、確実なことなどないのです。なぜなら身体は、事物たちを支配できるわけではないのですから。不可能性とは、踊る身体が動物へと生成変化することです。自己との、世界との人間的な関係を断ち切るのです。──ただしそれはこの不可能性のうわべを模倣することではありません。室伏にとって、不可能性をダンスの創作の原点とすることは、肉体の根源的な不可能性を表現することなのです。室伏の踊りは、日常生活を生きる身体の自己同一性の破断から生まれるものです。室伏鴻にとって踊る肉体は、不可能性のうわべを模倣するのではなく、身体の根源的な不安定性を可視化します。この決定的経験のなかで彼は、自分自身や生きるものが持つ、消去しえない不穏な他者性を認識するのです。
この不可能な肉体から生まれる政治性は、一見自然に見える肉体と世界との関係を宙吊りにします。生産的な関係が身体と事物とのあいだで、身体と身体じたいとのあいだで結ばれることは、一見自然に見えるかもしれません。しかし、恍惚の経験によって身体が不可能性の領土に投げ込まれた瞬間に、その正体を露わにするのです。功利主義に貫かれた身体と世界の関係性は、世界を慣習のヴェールで覆いつくします。そこから生まれるまやかしの親近感によって、世界や身体性は主体のための客体に成り果ててしまいます。室伏の踊りにおける恍惚の経験は、自然に見える有機的組織を告発するものです──つまり利便性を追求する身体組織の自然さを告発するものなのです。

室伏の踊りとテクストは、抵抗の一形態となっています。ただし特定の政治イデオロギーに帰属しているからではありません。自己自身と衝突し葛藤する身体性を積極的に行使しているからなのです。権力こそが《他者》と関係する唯一の可能性であるという考えに疑問を投じるのです。肉体や踊りに対するこの見解はラディカルなものです。脱領土化が、人格の自己同一性を疑問に付すだけではありません。動物への生成変化、強度的なものへの生成変化の過程は、知覚しえないものへの生成変化をも招き寄せ、人間中心主義の既存の境界を押し広げるのです。

ご清聴ありがとうございました。困難な日々が続く中、われわれもこの終わりなき対話を通して自己と出会えますように。

ジョナタン・カウディーヨ│Jonathan Caudillo

メキシコに生まれる。2017年、イベロアメリカーナ大学で哲学の博士号を取得。近年は、芸術と、身体の脱構築との関係について研究。論文に“Thus spoke Ko Murobushi”、“Ritual and Violence in Greek tragedy”、“Law and Desire, in the psychoanalytic knowledge”など。著書にBody, cruelty and difference in dance butoh, a philosophical lookなどがある。現在、国立芸術センターで教鞭をとる傍ら、Hydra Transfilosofía Escénicaでパフォーマーとして活動。メキシコ国立自治大学の生命倫理プログラム博士研究員。